『堀井学物語』

堀井学:冬季五輪3大会連続出場、世界大会通算27回優勝を誇る元スピードスケート選手

堀井は、98年の長野五輪ではフラップスケートに対応できず惨敗した。だが96年、97年のワールドカップでは総合優勝を果たしている他、97年の世界選手権でも優勝している。「また堀井か」と思えるほど堀井無敵時代があり、長野五輪ではもがき苦しむ姿があり、その後、また世界チャンピオンに返り咲いている。


期待された長野での敗北。正直、「もう辞めよう」と思った。だが「このまま終わっちゃダメだ、もう一度勝負したい」と決意し、3年後の01年W杯ヘルシンキ大会で世界チャンピオンになれた。そのことが自分の誇りとなり、今の仕事の原動力になっている。そして後進へのメッセージは、「夢と目標を持て、そして決してあきらめるな」だ。

おじいちゃんっ子だった私は、幼児体験でおじいちゃんに基本的な考え方を叩き込まれた。初めてキャッチボールをやり出したときには、

「学(まなぶ)、プロ野球選手をめざせ」
「おじいちゃん、そんなのムリだよ」
「一生懸命やればなんでもできるようになる」

小学生のある時期、ものすごく太り始めたときには、

「学、おまえはやっぱり横綱をめざせ」
「おじいちゃん、ムリだよ、あんなに大きくなれないし、強くもなれない」
「一生懸命やればなんでもできるようになる。同じ室蘭出身の大関・『北天佑』や近所の有珠郡壮瞥町(そうべつちょう)からは『北の湖』という大横綱が出ているじゃないか」
「わかったおじいちゃん、僕は横綱をめざすよ」と、素直に横綱を目指し始めたときもある。

そんなある日、通っていた小学校にスケートがとても早い子供が転校してきた。その子に早い理由を聞くと、「少年団に入って練習している」という。「僕も少年団に入ってスケートで早くなりたい」と思って家族に話すと、まずはスケート靴を買うお金がない、と言われた。そこでおじいちゃんに相談すると、

「学、スケート靴はおじいちゃんが何とかしよう。そして将来、オリンピック選手、日本代表をめざそう」
「おじいちゃん、むりだよ、いきなり」
「一生懸命やればなんでもできる」

小学校卒業のときに書いた作文「ぼくの将来のゆめ」は、オリンピック選手になりたい、黒岩選手も橋本選手もみんな努力してオリンピック選手になったので、ぼくもがんばってオリンピック選手になりたい、と書いた。それはおじいちゃんの教えの影響だった。作文の内容については、友達からも先生からも誰からも何にも反応がこなかった。おじいちゃん以外、誰も信じていなかったのだろう。

「スケートなんか辞めよう」記録が伸び悩み、焦りを感じる自分に向かって
「おまえはフォームが柔らかく、良いバネをもっている。きっと良い選手になる」
と、いつも励ましてくれた中国の恩師も大変すばらしかった。そして、とうとう高校進学について先生と親との三者面談の時期がきた。


進路指導の先生は「堀井はFランクだから行ける高校はここかここだ」という。でも私は、全国からスケートのエリートが集まる「白樺学園」に入りたいと言った。母はそれを聞いて、「あんた何をばかなこと言っているの、あんたに行けるわけがない。」と激しく怒った。父にお願いしても、父は、「学、スポーツでメシは食えん」。その瞬間、私の夢というお皿は、こなごなに砕け散ったように思えた。

だが、その後ろ姿をおじいちゃんが見ていて、
「おまえは親の反対にあって夢をあきらめるのか?」という。
「わかった、おじいちゃん。もう一回父にかけあってくる」
とうとう父も根負けして、
「わかった、学。おまえがそこまで言うなら行かしてやろう。ただし、条件がある。次の大会で16位以内に入いることができたら白樺学園を受験してもよい。」

うれしくなって母にそれを報告に行くと、
「おまえが16位以内に入れるわけがない。もしそんなことが出来たら、ハダカで逆立ちして町内一周したる。」と言った。結局、次の大会で百分の16秒差で16位入賞を果たしたそのレースで、一番苦しいときに頭に浮かんだのは、「お前にはムリ」という母の顔と声だった。

「ちくしょう、絶対に入ってやる」とがんばった。母は、後日、お前の神経を逆なですることで奮起を期待したのだ、と笑っていた。母にも感謝しなければならない。とにかく私は両親との約束を果たし、白樺学園を受験させてもらえることになった。そして、無事、入学試験に合格した。

 ところが入学式に行き、スケート部の集まりに参加して愕然とした。日本全国から早い選手が特待生として集まっている。自分より早い女子選手までいた。どうやら試験で入ったのは自分だけのようだ。周りはみんな自分より
早い。すごい所へ来てしまったと焦り、不安になった。


念願かなって白樺学園に入学し、スケート部に入ったが、まわりを見ると自分よりすごい選手ばかりが集まっていた。気後れした気分のなか、監督のあいさつが始まる。「みんな、入学おめでとう。ところで、君たちの夢と目標は何だ。出したいと思っているタイムを紙に書いて部屋に貼っておくように」という訓示があった。

家に帰り、さっそくカレンダーの裏側に『43.0秒→40.0秒』と書いて貼りだした。一年間で3秒もタイムを早めようという目標だ。ちょっと欲張りすぎたかなぁ、と思っていたが、いつもこの紙を見ているうちに、絶対やるんだという気持ちに変わっていった。そして、一年生で40.0秒を達成。二年生でも同じように『38秒7』と書き、それを達成。三年生でも『38秒2』と書いてそれをクリアした。

白樺学園の二年後輩で、金メダリストの清水選手や、Fさん、Kさんなど世界で活躍した人は皆、先生の指導通りに目標を紙に書き、壁に貼って記録を達成している。ところが、そんな単純なことすらやらない選手もたくさんいたのは意外だった。

今でも忘れられないエピソードがある。それは高校一年生の時、大会で私が予選落ちした時だ。周囲で予選落ちするような選手はほとんどいない。部活のペナルティとして、先輩の道具運びはもちろんの事、歌ったり踊ったりしなければならない。それはもう、みじめな気分で宿舎に戻った。そのあわれな私の姿を監督とコーチが部屋から見ていたのだろう。部屋に戻るなり電話があり、「今すぐ来い」と呼び出しがあった。

「お前みたいな選手はいらない。もう辞めろ」と言われるに違いないと思って覚悟して部屋をノックした。入室するなり、監督から
「堀井、おまえは本当に悔しいのか」と聞かれた。

緊張して足をふるわせながら、「はい、くやしいです」と答えるのがやっとだった。すると監督は意外にも、「おまえは、日本を代表する選手になるためにここに来たんじゃないのか?」と言う。予想外の言葉だ。しかも、それに続いて「堀井、一生懸命がんばれ、あきらめるな」と言われた。

自分はダメだ、と思っていた矢先のこの言葉に感極まってお礼を言い部屋に戻ろうとした。すると、隣りにいたコーチから、「堀井、一緒に風呂はいるぞ」と言われた。風呂に入って、コーチの背中を流していると、「おまえも反対になれ」と言う。なんと、コーチが私の背中を流してくれつつ、こんな言葉を発して下さった。

「堀井、おまえが一生懸命やっているのは、オレにはわかる。お前は特待推薦で入部したのではない。他の選手と同じことをしていてはダメだぞ。オレは、おまえに期待しているからな、あきらめるなよ」

私はブワーと涙があふれてきて、「絶対に速くなってやる」と心に誓った。もし、あのとき「おまえなんか辞めてしまえ」って言われたら、本当に辞めていたと思う。・・・

『こぼれ話』
「堀井さん、金メダルの実況中継MDを作っていつも聞いていたって本当ですか?」
と私は二次会の席で堀井さんに質問した。イメージトレーニングのためにプロのアナウンサーに依頼して世界記録で金メダルを取ったときの仮想テレビ放送を収録したというのだ。

「その話は本当です。普通は音楽を聞くなどしてリラックスするのですが、僕のMDは実況中継なんです。この中継を聞いて、なんど涙したことか」

良いと助言されたことはそれを信じてトコトンやる。おじいちゃんの教え通り、野球をめざし、横綱めざし、スケートをめざした。やる以上、てっぺんをめざした。お母さんの苦言にも立ち向かい、高校の監督・コーチの助言もすべて堀井は吸収した。素直で、とことん努力の手を抜かない天才だ、堀井の話を聞いて思った。